中村天風 心身統一法 積極観念の養成法 実在意識の書き換え
積極観念の集中(養成)は、観念要素の更改が潜在意識に働きかける方法だったのに対し、実在意識(顕在意識)の働きかける方法である。
潜在意識が積極化されれば、実在意識も積極化される事になるので、敢えて、積極観念の集中法をしなくても良いのでは無いかと考える人がいるかも知れないが、長年消極観念で生き、神経過敏になっていた多くの人は、観念要素の更改で潜在意識の強化に努めながらも、現実の日常生活では、何時しか知らず知らずに消極的方面に感化される怖れが大いにあるためである。
この方法の心がけは、日常生活の中で、常に己の心を明るい方向に明るい方向へと向ける事である。もっと、極端に言えば人生を暗くするような出来事だと分かっていても、心は明るく保つように努めることである。
自分の心に自分で働きかけ、本能的に受ける感情や感覚を、恣意的に自分が思う方向に向ける事であり、それを習い性とするには、それ相応の努力が必要である。
内省検討
自分が思っていること、考えていることが、積極か消極かと云う事、即ち自己の心的態度を客観的に観察し批判することです。
これは事物事象の良し悪しを観察、批判するのではなく、その事物事象に対する自分の心の態度がどうか?、積極か消極かということです。
これは意外と難しい。従って、常に自分の感情を交えないで、客観視して観る癖をつけるよう、意識して努め、
習い性とする必要があるでしょう。
暗示の分析
これは多面から来る暗示が積極か消極かということを分析批判することです。
そして、積極的なものは受け入れ、消極的なものは断然排除することです。
特に現代社会は消極暗示で充満しており、社会的に大きな影響力をもつマスコミが完全に麻痺しており、消極的な方面からしか報道しなくなっていると云う事を認識し、厳しく分析批判する必要があります。
同様に、友人や会社やなど、日常生活で接しる人や物にも十分気をつけ、消極的なものに引きずられないよう気をつけなければなりません。
対人精神態度
これは読んで字の通り、人に対する時の自分の心の態度のことです。
少なくとも天風会員は、人に接するときに、相手を消極的にするような態度や言動をとってはなりません。
事情の如何を問わず、人に接するときは、明るく、朗らかに、活き活きと、
勇ましくあるように努めなければなりません。
特に悲運の人や病気の人に接する時は気をつけ、同情して相手に引っ張られるような事があってはなりません。できるだけ鼓舞し激励して、
相手を元気つけてやりましょう・・・・。
即ち、相手に積極的な暗示を与えてやるようにすることです。
苦労厳禁
過去苦労、現在苦労、未来苦労(取り越し苦労)がある。
過去苦労、
過ぎ去った事をあーでもない、こうーでもないと考え、暗く落ち込む人がいるが、こんな苦労からは何も生まれない。ただ、過去を顧みて現在、
未来に反映させる為の検討はまた別である。所謂、過去を振り返る心の態度がどうかと云うことであり、
振り返って落ち込むような振り返り方はダメだということです。
現在苦労
心は現在を要す。過ぎたるは追うべからず、来たらざるは向うべからず。
人は死ぬべきものであるが、死ぬまでは生きている。
未来苦労(取り越し苦労)
取り越し苦労ほど下らぬものはない。それは、いたずらに心のエネルギーを消耗するだけのことだ。
取り越し苦労というもんは全て消極的観念から発せられるものである。
自分で自分の心のスクリーンにお化けの絵を書いて、自分で恐れたり驚いたりしているような、滑稽なものである。
ただ、未来の事を考えるなと云うのとは違う。所謂、これも過去の反省と同様で、将来の事を考えるにしても、
その心の態度が積極か消極かと云うことであり、消極ならば取り越し苦労になり、積極ならば建設的なものとなるのである。
正義の実行
正義の実行といえば、何かたいそうで凄く難しい様に思われがちであるが、決してそんな難しいものではない。
人間誰しもが持っている「本心」
「良心」にもとらない行動をすればよく、心に疚しさを感じな行いをする事である。
だから、一寸勇気を出して、その場その時に、自分の心で感じた、本心良心で感じた事を実行するように努めることです。
朝、道端でお会いした人に「おはようー」と声を掛ける。電車にすわっていて、しんどそうな老人や妊婦に席を代わってあげるとか、
雨にぬれているひとに傘を差し出してあげるとか(雨あめ振れふれ母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな・・・、あれあれあの子はずぶ濡れだ、
柳の木陰で濡れている、、母さんのお傘を貸しましょう・・・)
そんな事から始めればいいと思う。
相手が喜ぶ事をしてあげる。させて貰う。自分の本心良心を喜ばせてあげる。そんな事に努めましょう。
何れも、この積極観念の養成法は、実在意識に働きかける事であり、常に意識して、自分を客観視しながら、
習い性となるよう努めなければならいことです。